第5章.新しい項目 医療
医療
飢餓や貧困の問題を掘り下げたアマルティアセンの研究などによって、貧困原因となる病気、その病気に対応するために必要な援助など、医療に関係する事柄も開発経済学の範疇となることがある。
一般に貧困層は、医療サービスにアクセスすること自体が困難な場合も珍しくない。物理的に自分の症状にあった病院がアクセス可能な範囲にない。病院の近くに転居するコスト負担に耐えられないといった物理的アクセスの問題から、アクセスできても高額の医療費を払えない経済的な問題など困難は多々ある。
パラリンピックではスポーツの視点から障碍者のランク付けというか、同等とみなす範囲の境界を設定しているが、貧困との兼ね合いでこれを定めるのはかなり難しい。センの議論を見てもこの問題への明快な回答はない。障碍者の困難性が何らかの形ですべて経済的計算に置き換えて評価することもできそうにない。
貧困における医療の問題はこのように解決困難な課題が多いため、マクロ的に解決することを考える場合は異なるアプローチをとることが多い。たとえば、ペシャワール会の中村哲のように、下痢や風土病に対応するための薬を大量に交付できる医療サービスの充実より、安全な水へのアクセスを優先して井戸を掘る。医療サービスを受けられるように村の所得をあげるために、灌漑設備を敷設するなど、疾病の原因を取り除く方策や、疾病後の困難を取り除く試みの方がかえって効果が上がる場合がある。
開発経済学で扱う医療問題では、このように直接的な効率性よりも貧困の罠から抜け出すこと、困難の除去に力点をおいて、対応策を練らないとうまくいかない。
医療関連 医療経済学
こうした貧困と医療の社会問題とは別に、日本では薬学部の下に「医療経済学」などが作られ、医療政策の評価などに経済モデルが応用されたりする。このたび、いくつかテキストに触れる機会があったので、所感を述べておこう。まずテキストを見て、呆れてしまった。たびたび指摘するように経済学には時間の有限性を無視した議論が多い。一方、医療で最も考慮しなければならないのは、生活の質(QOL:Quality of life)のはずで、これは一日24時間の制約を無視して有用な議論ができるとは到底思えない。マクロの効率性を議論する際に、経済モデルを流用するならともかくもという感じだ。
その場合も医療サービス利用者が中所得層以上で、そうした所得階層の平均効率を高める目的以外に経済モデルの有用性を想定できないが、テキストで取り上げられている項目を見ると、シカゴ学派の影響からか必要以上に経済モデルを過大評価している様子がうかがえる。ご丁寧に誤った視点から、理論モデルの有用性は、仮定の現実性ではなく予測の適格性だという変わった定義も書かれている。一般に政策の有用性を見るためには、経済効率性が有用な局面もあるが、医療の場合、根幹から異なるのではなかろうか。もちろん財政破たんするような医療サービスを行えないのは分かるが、もう少し、社会的必要性から、きちんと予測モデルを組んだ方がいいように思う。
思いつく範囲で計算できそうなものは数種類しか思いつかない。人口推計を利用した公的健康保険などの上昇の予測などは、経済モデルの流用でもできそうだ。特定地域に病院を建設する場合において、その地域における医療サービスの需要予測程度も可能かもしれない。他は芳しい予測結果をもたらせそうなものを簡単に想定できない。