第3章.企業はブラックボックス
新古典派経済学の企業観を念頭において、経済学の考える企業について書いておきたいと思います。大学生程度の経済学の知識で満足するなら、ミクロ経済学がまったく考慮出来ない点など無視して、理論の単純化の恩恵に授かればいいのかもしれませんが、最近の似非エコノミストの暴虐無人ぶりを見ると、そうも言っておれないなぁという感想を持ちます。
新古典派経済学の企業は、ブラックボックスにすぎません。企業は闇箱なので、質量すら本質的に考慮出来ません。何らかの投入財 (input) が与えられれば、それを適切に生産して、産出財 (output)をもたらす関数関係として捉えています。例えば、労働と資本財を投入して、何らかの製品を産出する製造業に、新古典派的な生産関数を考えるとき、もちろん土地などは考慮してません。投入が増えて、混雑が生じて効率が落ちるとか、土地が不足するから生産が落ちるなどという事はまったく考慮出来ません。投入財が労働と資本財のみの場合、土地ゼロだろうが、無限大だろうが関係なしです。したがって、企業レベルの生産関数にせよ、マクロレベルの生産関数にせよ、理論と現実のかい離は常に忘れてはならないものです。逆に言えば、統計の制約などもあって、その程度の単純化と大雑把な事しか検証できません。これを科学と呼ぶにふさわしい水準かと問われれば、疑問しか生じません。
鉱業や製造業の生産関数の推計に関して、投入を詳細にするものでも、労働、原材料、資本財(例えば工業用ロボットとか)、エネルギー(電気など)くらいまでです。農業でもない限り、土地が入ることはあまりありません。関数型の選択にしても、特殊な関数形を仮定するか、二回微分可能な関数でそのテイラー展開が対数線形になるような一般的関数形にしないと、推計が著しく難しくなります。
そうは言っても、何の手がかりもなしに、突き進むのは、やはり愚かなので、仮説検証できるような枠組みを作ろうと努力しているというのが現状です。
実際には、計量経済の推計式を何百本も組み合わせて、計算すると、意図的に係数など統計的な有意性を含めて、逆の結論すら出せる場合がほとんどであり、その事が、経済学を不毛にしています。そういえば昔、著名な実証研究者も、NBERに「私は百万もの推計を行ってきた」といった趣旨の論文を載せて話題になりました。
計算が面倒とかよりも、より哲学や倫理の方が競争原理の貫徹には重要ではないのかと、昨今の社会情勢を見るたびに思うし、現代社会は、人間の質も、所得の高い人ほど低い傾向があるので、なおさら法制度などの不備などに関心が向かいます。