計量経済学入門



第3章.統計処理前の注意事項1

 現在、インターネットの普及とともに政府の統計は入力する事もなく、簡単に入手できるようになった。これは大変良い点である。しかし、基礎情報が開示されるようになっても、その二次利用による情報の質があがるわけではない。
 経済学の方で書いたが、インターネットの普及によって一市場が実現し、低価格が実現するわけではないのと同様に、インターネット上で正しい統計処理による情報が生き残るわけではない。
 統計処理後の解釈にも問題が残る場合もある。例えば、国別のカロリー摂取量をただ比較しても健康に関する知識が増えるわけでも、その国の特徴が増すわけでもない。気候が寒冷な地域では人間の基礎代謝が大きいのだから、その分、必要となるカロリーは増える。気候が異なる場合、単純にカロリー摂取量を比較しても、必要以上に摂取しているかどうか、A国よりB国の方が十分なカロリー摂取と言えるかすら分からない。それに、「気候差が大きい国土をもつ国の平均値を見ることに意味があるのか?」も疑問が残る。気候や所得の影響を除いても特定の特徴が見出せれば、その国の特徴と解釈することも可能と言えるかもしれないが、そうした真面目な分析をすることは労力を要するためか、簡単な情報しか提供しないインターネット上の情報にその手の分析がなされることは少ない。単純に言えば、その程度の大雑把な事しか言えないのであれば、わざわざ摂取カロリー量を見なくても、所得水準でだいたい分かってしまう事かもしれない。

 元となる統計にも一次的な統計から加工統計までさまざまあり、特に経済関係のデータには加工度の高いものも多くある。GDP統計などは加工度の高い統計の典型である。その国際比較統計は尚更であり、国際比較を行う際には、統計の精度などさまざまな問題があるが、利用者側がその限界を見極めながら使う事は難しい。研究者ですら、統計作成者側に責任転嫁したり、他に統計がないんだからという安直な正当化に走りがちである。嘆かわしい事ながら、分析結果を見る側が十分に注意する必要がある。

 統計分析をする際に補完の目的で網羅的に統計データを掲載する例もあるが、肥満と心疾患を見るような場合、心疾患の方の統計が10万人当たりの場合、人口の少ない国においては、その国の特大級の肥満者によるバイアスで一国の統計が偏るような場合も考慮しなくてはならないはずであるが、注意事項として説明される事もほとんどない。

 また、花粉症と人工林など相関を取るのも根拠に乏しい。まず、花粉症自体、花粉飛散量と完全に相関するという前提自体、正しいか分からない。そもそもスギ花粉症でも他の花粉症を患っている場合、スギだけの花粉症の人より発症が激しかったりする。またスギ花粉症の発症を契機に化学物質過敏症に近い症状も同時期に発症する例も報告されている。それに花粉症患者の中には、花粉以外の不純物の多い環境で、より花粉症に発症しやすくなると感じる者もいる(例.禁煙の場所より喫煙の場所で、くしゃみが出やすい等)。単にアスファルトによる花粉の再飛散があると捉えるのが正しいか疑問である。そうした中、平均的な相関を例え県別地域別に取っても有益な情報が得られるか疑わしい。もし花粉飛散量も平均樹齢など影響があるかもしれないのなら、まず、県内のスギ花粉飛散量の計測とスギ人工林比率の相関を取ってみる必要があるだろう。スギ花粉量は定点とはいえ、統計があるのだから、こうした分析をさぼって、意味のない相関図から無理に読み取れる内容を書くのに意義があるか疑問である。それからスギ花粉症の発症のメカニズムは詳細に分かっているわけではないから、一口にスギ花粉と言ってもスギ品種に依存する話かも知れない。このように統計分析といっても、分析が行われる前に、観察者の主観的判断が数多く反映されているが、その事を観察者が明確に意識するだけでなく、その主観的判断の内容を開示して研究する事は簡単ではない。国の植林政策によって花粉症が増加した事は事実としても、杜撰な相関を取れば、かえってその責任の所在を曖昧にするだけである。

 医療関係の統計には詳細な検討を要するものが多いが、その時点の医療技術の問題を満足に検証することなく、安直に利用されがちである。ガン発症後の生存率に関しても、予防医療の技術と治療技術の問題に分けて考える必要があるし、放射能性のガンとその他のガンも区別して扱うことが望ましい。予防検査の行い過ぎで、放射能性のガンを発症する場合も十分に考えられるため、比較的保険の適用がない高価な予防医療が重要であるという分析例を見ると、単に見せかけの相関から医療業界の利益代弁をしたいのか判定が難しくなる。意図的であるかどうかは別問題にしても、安直な分析からは、こうした結果に陥りかねないため、単純な相関図のような統計処理でも、その相関図を取るに対して、いったいどれだけの価値判断を下したのか、分析者が明確に意識し、それを文章化しておくことが有益である。

Kazari