計量経済学入門



第4章.統計処理前の注意事項2

 古くて新しいベルクソン

 ベルクソンを読み直している。特に「時間と自由」がよい。この章では、Henri Bergsonの指摘した内容に注意して、計量経済学に適用する方法を考えてみたい。こんなことを書いてあるテキストは今のところ見たことがないし、今後も作成される可能性もないと思われる。取れる対策も限られているからだろう。

 通常、何らかの研究目的で、計量経済学を用いて、仮説検定する場合、私たちは、あらかじめ特定の因果関係を設定する場合がほとんどである。例えば、消費関数を回帰分析にかける場合、被説明変数は消費で、説明変数は所得などになるが、所得が原因で、消費は結果のように捉えている。もちろん、大学や大学院で専門科目を受講すれば、実際に計量経済学で検証可能なのは、相関関係に過ぎないし、そのような相関関係を否定できないという検証しかできないことは教えてもらえる。にもかかわらず、研究発表の際には、相関関係の否定ができないという検証であっても因果関係があるかのように発言して構わないことも業界の了解事項として親切に教わることもあるかもしれない。

 今後、どんなに数学や統計学が進歩しても、普通の人が使う一般的な意味での因果性が検証できるようになることはないだろう。だからこそ、研究前にどのような因果性を設定した上で、その分析結果に到達したのか常に意識しておかないと、見せかけの相関すら気付ける見込みがなくなってしまう。

 ベルクソンは「時間と自由」の中で、人間を分析対象とする場合は、時間の認識は、数学で扱うような均質な空間化された時間ではないと指摘している。好きな音楽を聞いている時の時間の長さに対する感覚などを想定すれば分かるだろう。黒板を爪で引っかいている音を大音量で聞かされる時間は、長く感じることだろう。そうした場合に比べれば、好きな音楽を聴いていたら時間がたつのが早く感じるだろう。人間の認識は、質的に異なる時間感覚がある。ベルクソンは、物質を科学する時は均質な空間化した時間で考えて問題はないが、人間を対象にする場合は問題があること、また、人間の時間感覚が災いしてとかく時間の前後でたまたま起きている現象を、因果性のように錯誤すると指摘している。

 錯誤の実例は2010.8.18の書評の8.25追記で触れた自殺について書いた。他にも一般書から専門書に至るまで、比較的どこにでもたくさん見つけることができる。この自殺の例はその他精神病の場合にも拡張可能で、一般にガンや毒物による死亡と違い、精神病の場合病名は診断結果であり、単なる途中経過にすぎず、その病名を何かの結果の原因とできる場合はあまりない。他の医療の場合でも、死因を特定することは難しい。最終段階の決定的なものはあげられるかもしれないが、手術ミス・医療ミスが介在の上、最後に治療中、脳出血で死んでしまえば、何をもって主たる死因と特定するかは非常に曖昧になる。逆にいえば、手術ミス・医療ミスがあった場合に、脳出血を主因としてしまうと、ミスに対する責任が極めて軽くなりすぎる可能性が高い。こうした事例からも人間を対象に因果関係を設定することは非常に難しいと痛感する。

 医療関係の学問と経済学はともに統計学を用いた実証分析をよく行う。そして、人間を対象にしているため、ベルクソンの立場からは両者とも科学しにくい性質を持っている。経済の資金繰りやマクロ経済の紙幣の流れが、比喩として、体内の血流のように言及されたりする。

 ここで経済理論をベルクソン流に考えてみよう。近代経済学のミクロ経済理論は、人間を経済計算した上で常に合理的に行動する『機械』と見なしている。この機械が常に『合目的』的に自らの利潤を最大化するような行動を取っている。ベルクソンの「創造的進化」の言葉で言えば、機械論と目的論が一致している場合を考えているわけである。しかし、経済理論がこのように分析システムを設計して考えているからといって、真の因果性が、理論の想定と同じと考えてよいことにはならないし、そのシステムを科学と呼んでよい正統性も存在しない。

 ベルクソン流に厳密に考えると、経済学を社会科学と規定できる可能性はない。したがって、ベルクソンの流儀を利用しても、いくつかの工夫が図れる程度の事に過ぎないが、何もしないよりはましであろうから、いくつか取るべき対策を考えてみよう。数学手法は弄りようがないので、まずは、分析前に、因果性をどのように設定したか、ソクラテスのように「どうしてこの因果性を設定してよいのか」を問い直すことが重要である。できることなら、因果性とその因果性の背後にある考えを全部書き出すというのもよいだろう。相当数の因果性を仮定して推論していることを知る羽目になるが、人間の認識の限界を知る機会ともなろう。

 それから、社会現象を回帰式などでうまく説明できるだけではだめで、後付けであれ、その経済行動を取る理屈に論拠がなければならない。重回帰や操作変数法を用いた分析などを想定している場合には、このように考えていくことで、操作変数として考えなければならないものがより鮮明になるだろう。

 ベルクソンの「創造的進化」では、「相関」は両義的な言葉で、動物の変異の考察の際に、「連帯的」な変異と「相補的」な変異を混同しないように注意を促している。計量経済学的に考える場合、これらは、相関係数の正負で判定できそうなので、この問題はあまり影響しないと考えてよさそうである。物質に対する「因果性」は三通りの解釈が可能として、1.「押す」、2.「触発する」、3.「ほぐす」を挙げて、それを混同しやすいと指摘している。それぞれの具体的な事例として、1.玉と玉の衝突、2.火花が火薬を爆発させる、3.蓄音機の駆動装置の回転が旋律を再生するというのをあげて、連帯性の強弱の違いがあると指摘している。1では、原因の量と質の変化が結果の量と質の変化をもたらす、2では、量と質は影響しない、3では、原因の量は結果の量に影響するが、結果の質には影響しない。ベルクソンは3の量として時間のみを考えているが、この3種の中で、原因が結果の説明になるのは1だけだと述べている。2、3の場合には因果性というより結果の契機と述べている。

Kazari