マクロ経済学入門



第4章.ケンブリッジ資本論争

 早々とタイトルだけ決めたが、講義で聞いたことなどを文献で確認しようとしたところ、あまり目ぼしい書籍に遭遇せずに、個別に論文をまた読み直すのもしんどいなぁと思っていた。また、当時感銘を受けた記憶のある論文が、整理が悪くどれか思い出せない。仕方なく、論争の本人J.Robinsonの論文の訳本「資本理論とケインズ経済学」を読み返していたが、それでも訳者後書きに少しまとまった記述があるくらいであった。資本論争の個別の論文は上記の本を読めば、ある程度詳細にわかる。しかし、全体像を手っ取り早くつかむのはこの本でも難しい。

 やや詳しい部類の昔の大学院向けの教科書には、アメリカとイギリスのCambridge(ケンブリッジ)間で争われた資本論争として紹介されていることも多かったが、現在のものでは解説すらあまり見かけなくなった。アメリカのケンブリッジの新古典派の代表としては、P.Samuelson(サミュエルソン)や成長理論で知られるR.Solow(ソロー)がいて、それに対抗する形で、Post Keysian の J.Robinson らがいる。最終的には、Samuelson側が負けを認める形で終結したと言われているが、それがその後の教科書に生かされることがほとんどなかったことの方が問題である。吉川洋の本にPutty-Clayの議論が載っていた気がするが、ケンブリッジ資本論争をそのようにまとめると矮小化することにしかならないと思う。

 この資本論争は非常に多岐にわたっている。そもそも、新古典派が使ったワルラスには、利潤率の話がないから、そういうのを無理にくっつけて論理をつぎはぎしても説明になっていないといった理論上の問題点も指摘されている。資本に関するレンタル市場の想定にしても非現実的で、現実の現象を説明できないとか、資本の分割可能性には限度があるとか、成長理論の根幹にかかわる問題点もある。資本の測定の問題点は、Vintage程度では解決しないとか、詳細になればなるほど、J.Robinsonの指摘は的確になるが、ケインズ革命との絡みで言えば、時間の観点が重要になってくる。

 時間に関して、J.Robinsonは、新古典派が過去も未来も等質の分割可能な単位として捉えていることを批判している。それは歴史の否定であると述べている。ケインズ革命は時間を歴史と捉えているからこそ、長期分析が可能だという考え方を示している。それは哲学で言えばベルクソン的な時間に相当するが、このベルクソン的な時間を、J.Robinsonは、ケインズ革命の本質のひとつと捉えている。J.Robinsonにとって、新古典派の想定している時間とは、等間隔の時間であるが、それはベルクソンの使った意味とは異なると思う。ベルクソンは、科学的実験をこの物理的等質的時間の中でしか分析できないと考えていたが、実際の人間の感情などを考察対象にする途端に、等質ではなくなるから、心理学や哲学では、この物理的な時間で分析すると間違うと述べている。しかし、経済学を科学とする立場からは、この物理的時間で問題ないとの考えも成り立ちそうだが、J.Robinsonにとって、新古典派の想定している時間はそれ以上に悪い意味を含んでいる。J.Robinsonの言う新古典派の想定する時間の中では、人間が住むことは許されない。だから、そのような理論上の空想的な時間から、人間社会に経済の政策を適用すると被害が甚大になるいうニュアンスがあると受け止められる。これは失業の現実から目を背けた古典派に対する批判と共通する感覚である。

 参考文献にあげた書籍のシリーズは20巻にも及ぶが、現在の経済学のテキストでは、ほとんど触れられなくなっている内容がふんだんに盛られている。そして、現在の新古典派型の経済政策がことごとく浮世離れしたものであることを予言した内容も数多く含んでいる。そのため、時間があるなら、このポストケインジアン叢書を読むのが適当だと思うが、時間のない人のために、訳者の山田克己の論文(1989年 8月)をあげておく。こういうまとめ方も便利だと思うが、次回に、ひとつの図表を用いて、J.Robinsonの言いたかった事をまとめてみようと思う。

(参考文献)J.Robinson[著]山田克己[訳](1988)「資本理論とケインズ経済学」日本経済評論社
Kazari