第5章.ケンブリッジ資本論争2
予告通り、新古典派の用いる生産可能性フロンティアを使って、J.Robinsonの言いたかった事を見てみようと思う。縦軸、横軸はそれぞれ、労働、資本を表している。図1と図2
あらかじめ断っておくと、J.Robinsonは、仮想的な世界でないと経済可能性フロンティア上を移動できるはずがないと考えている。もし経済が失業している状態にあったり、資本設備を全部使っていない状態、生産可能フロンティアの内側にいれば、そこから、周辺に動くことは可能だと考えている。論文では、主に生産関数に関してしか論じていないから、等費用曲線について直接の言及があるだけである。しかし、ワルラスやヒックスに対する批判などを読めば、そのように解釈しても問題はないと思う。経済可能性フロンティア上の曲線や等費用曲線は、あくまで新古典派の想定する世界像から導かれる理想的な関係式を表しているに過ぎない。ここで、この経済可能性フロンティア上に、たまたま載っているA国(図上のA点)、B国(図上のB点)が存在した場合を考えよう。新古典派の想定に基づけば、何らかの資本・労働の相対価格に変化が生じれば、無費用でA国からB国、B国からA国の状態に移れると想定されている。J.Robinsonは、それを現実には不可能な事であると論じているわけだ。
J.Robinsonは、A国のA地点に到るには、過去の経緯があると考える。つまり、本当は、図は3次元で考えなければならず、時間を考慮しなければならない。例えば、時間軸をその下に描き、それを上から平面で見た図を第2図とすれば、t0からt1の時間をかけて、各々、A国はA地点、B国はB地点に到達したのであり、その3次元上で交点がなければ、歴史的にA国からB国に転換する可能性すら見いだせない。もちろん、莫大な費用をかけて、資本を償却して、A点からB点に移行することはできるだろう。しかし、新古典派の言うような資本のレンタル市場も存在しないから、経済政策を、この理論から引き出すのは適当ではないと言う事になる。別の見方をすれば、集計量の資本と労働に関して、相対価格に対して市場の調整メカニズムのようなものが働くのか、働くとしたらどのような範囲でかを真面目に問うている。ここで言う集計量としての範囲は広い。一国だけでなく、一市場についても当てはまる。
この図を用いて何が言いたいかというと、このケンブリッジ資本論争というのは、ケインズが、失業者を通じて、古典派とケインズ派で争った論争と、同じ論理構造を持っている事を指摘したかったからである。失業者の論争では、世界大恐慌の時ですら、古典派は自発的失業しかいないと主張している。現実を説明しえない理論モデルを用いて、労賃の低下を受け入れない労働者が悪いと主張した。現在、恐ろしいことに、日本で、石原都知事のような頭の悪い文筆家が、この古典派の失業者の理論を振りかざしたりする。そうしたことに経済学者が異を唱えない状況には、呆れる他ない。
現在のマクロ経済学の学者は、実は、資本論争の後から進歩が停止してしまっている。それは真面目に資本論争の中身を問うことを止めたからでもある。