第一章.批判的に読書する
平井昌夫(1969)「文章表現法」至文堂時間による整理という観点はないですが、封筒の整理法について、p100-101に書かれています。日本語の非論理性については、p152-160にあります。彼は、「b.日本語は論理的だとする意見」の中段で、愛着や尊敬から来る精神主義的論議の傾向が強いと断定しています。しかし、その後では最終的に、日本語は論理的でないのではなくて、非論理的な文章を書いたり話をしたりする人自身の頭の働きが非論理的だとすべきでしょうと結論されています。この展開が非論理的です。しかし、この本のいい所は判断材料が提供されている点です。
論理的とする議論では、以下の理由が挙げられています。
- 欧米人でも非論理的な人が書く文章は非論理的である
- 日本語の文法を、外国から輸入した文法理論で説明しにくいのは当然である。
非論理的とする議論では、以下の理由が挙げられています。
- 外国人に日本語を教える際に、教えるのが難しい。
- カントなどの哲学は翻訳書より原文の方が理解しやすい。
- 主語の省略が見られる。
- 助詞などの変更で文のニュアンスが変わる。
- 機械化しにくい
非論理性の理由は極めて貧弱です。例えば、禅に関する書物を読むといい。日本語では簡明にできる議論が、英語の書物では不可思議な物語にしないと成立しないという事が分かるでしょう。その言語が持たない言葉を説明する事は難しいのです。この事は、日本酒の説明の際に、同書のp122に記されています。数学に関しては、日本の方が進んでいる分野もあり、そうした分野では理解しやすさの点について、英語に比較優位はまったく認められません。禅などの概念も西洋にないものについては、断然、その大元の思想を作った言語が論じるのに適しています。
したがって、次のように言えるのは当たり前です。
- カントなどの哲学は翻訳書より原文の方が理解しやすい。
より正確には、英語よりドイツ語の方が正確なのです。カントに関して言えば、英語は非論理的だから正確に訳せていないという議論もあるくらいなのですから。
主語の省略に関しては、省略する言語の方が多いという言語学者の指摘があります。(たぶん金田一春彦の指摘)
助詞などに関しては、規則性の問題といえるでしょう。不規則変化の多さを比較して、日本語の方が不規則変化が多いという事です。しかし、この事が論理性と何の関係があるのでしょうか。不規則変化が多いという事は、教えるのが難しい証明にはなっても、非論理性の証明にはなりません。そうした方が表現が豊富になっているのなら、それも言語のもつ合理性のひとつと言えるからです。
機械化しにくいは、この著書が書かれた当時1960年代の技術の問題であって、論理性の中で、論じるのが相応しい内容ではありません。大幅に譲歩して、日本語の特性であったとしても、非論理とは関わりがありません。特に、ここで扱われている簡便さなどまったく関係ありません。100語しかない簡明な言語が存在できても、それが論理的な言語となるには、よほどの環境がないとそういう状況は考えられません。
「c.近代的な機械化に適応しにくい日本語」での議論は、現在から見れば、1960年代の杞憂に終わりました。しかし、このcでの著者の見解には寒気がします。「学問研究の立場から、コンピュータに楽にかけられるような日本語でなければならない」というのです。なんとオコガマシイ議論でしょう。原爆の研究のために、原爆を無節操に落とせる環境でなければならないと原子力研究者が述べたら、どう思うでしょう。言語は言語学者のために存在するのではありません。
同じ材料から例証を検討しても日本語を論理的とする方が合理的と結論できます。そして、bの中段の断定から後半の結論に至る過程・文章の構成は完全に失敗の見本になっています。「文章表現法」という書物の性格から、こうした事態は好ましくありません。しかしながら、この本は賛否両論を併記しているため、批判的検討が簡単にできます。そのため、イデオロギー的に偏っていても、その弊害を乗り越えることができ、よいテキストと言えます。
ここでは取り上げられていませんが、敬語の複雑性から、非論理的とする議論があります。アメリカ英語ならともかく、イギリス英語には王室用の特別な表現法はたくさんあります。敬語の定義の中には婉曲表現が含まれます。欧米の英語の文法書物では婉曲表現も少量しか紹介されていませんが、英米文学に勤しめば分かるように、例は千差万別に数知れず存在します。書き様がないものは文法書に載っていないだけです。