第七章.新しい日本語史の構築努力
「東大教師が新入生にすすめる本」から自分の専門外で興味を持てた書評を手当たり次第に読んでみた。その結果、日本語の歴史を真面目に研究している方の著作に出会えた。その前に、「東大教師が新入生にすすめる本」を批評すると、経済学の教授(大瀧雅之、神谷和也、福田慎一、松島斉)が全員自著を挙げているのには呆れた。推薦書の著者名に名がない方も一名いるのだが、一章担当している本を推薦している。他の分野では、感動した本を訳した場合、自分の訳本を推薦している例は見られたが、自著の例は経済学者のみである。
山口明穂(2000)「日本語を考える−移りかわる言葉の機構」東大出版 小林英雄(1999)「日本語はなぜ変化するか」笠間書院両方とも興味深い本だった。山口明穂は日本語の平安時代の時の助動詞「き」「けり」「つ」「ぬ」「たり」「り」を中心とした変遷を分析している。小林英雄は変化の要因を分析した第二部は狭い範囲ながら、第一部でこれまでの日本語史や研究がどのような位置付けにあるのかなど、様々な点について触れているので、多くの人の参考になるだろう。また、文法嫌いの方は、この著書を読んで、その要因を納得できるではと自負が書かれている。
ここから、小林英雄の本について詳細に見ていこう。いろいろ示唆に富むことが書かれているので、興味深かった文章を引用として以下に、括弧内に記載頁を記して列挙してみよう。
安定していないのが言語の正常な状態である。(36頁)
「ゆれ」は客観的な認識、「乱れ」は価値判断を伴った認識ということになる。(37頁)
古代日本語には形容詞語彙が貧弱だったので、現代語の形容詞のなかには、文献時代以後に形成されたものが少なくない。(46頁)
古代日本語では<多/大>を区別していなかったが、この字書(『類聚名義抄』)が編纂された時期までに区別が生じている。(47頁)
平安末期から中世初期にかけて終止形が連体形を吸収し、それまでの連体形の語形をとるようになった(47-8頁)
多/大の概念を分離し、大/小の形容に絶対的/相対的の二つのセットが形成された過程には整然とした筋書きが見える。(50頁)
国学の目的は、端的に言うなら、<やまとごころ>を究明することであった。・・・略・・・国語という概念はきわめて閉鎖的である。・・・略・・・日本と事情が似ているのは韓国の国語である。(57頁)
国語とは、我が国の言語という意味である、・・・略・・・国粋的理念に裏づけられており、世界の諸言語のなかの一つという客観的把握に基づいた無色の名称ではない。(57頁)
日本語の語源説明に関しては、真実と頓知や駄洒落との間に一線を画しがたい。(71頁)
11世紀を中心に、・・・略・・・ハ行音節がいっせいにワ行子音に移行した。(76頁)
日本語の活用の歴史を考えるうえでは、語幹優先方式に基づく活用表のほうが多くの大切なことを教えてくれる。(191頁)
平安時代の助動詞ルは、上代の助動詞ユにさかのぼり、助動詞ユは、自然生起動詞の活用語尾ユにさかのぼる(第4章)。(197頁)
関連する諸要因の変化によって、それまでの言語形式が不都合になると、その不都合を解消する方向で調整の動きが生じる。(209頁)
平安末期以降、それまで連体形として使用されてきた語形が新しい終止形となったために、自動詞/他動詞の終止形が、ススム/ススムル、ソダツ/ソダツルのように別々の語形になり、その結果、他動詞の終止形も自由に使用できるようになった。(216頁)
特定の機能をもつ助動詞が必要になった場合、求める機能に近い意味をもった動詞/動詞句/形容詞などの語形を、もとの語形を喚起させないまでに磨り減らして助動詞化するのが、日本語の方略のひとつである。(217頁)
現代語では、動詞句の担う敬語の機能が著しく軽減されている。(228頁)
日本語起源論争に見られるブームの説明を読むと、経済学や他の分野でも当てはまりそうだ。特にジャーナリズムやベストセラーに端を発する論争にとりわけ多い。門外漢からの珍説、繰り返し起こるなどの特徴を有している。著者によれば、1950年代の日本語起源論争の契機は、医師の安田徳太郎とのことである。著者は言語学の立場から、日本語は日本列島で生まれた言語であり、直接の起源になった言語は存在しないと明言している。言語を動的に捉えない限り、正確な体系はつかめないと考えていることも現代的である。おそらく、前文の「言語」にはあらゆる学問分野を入れても成立しそうである。しかし、それを正攻法で論じても、あまりに複雑すぎて手に負えない可能性も高いと思う。
これまで読んだ古典文法の中で、小林英雄の考えは最も論理的で、説得力がある論のひとつである。そのため、同著者の本をもう少し、読んでいこうと思う。既に読んだ本を比較すると、小林英雄(1999)が堅い内容と感じる方には、小林英雄(2008)の方が読みやすいだろう。「丁寧に読む古典」では、一度は授業で触れた事のある徒然草や方丈記のはじまりの文章にすら、誤読が氾濫しているという事が指摘されている。書評で取り上げた岡本裕一郎(2009)「ヘーゲルと現代思想の臨界」ナカニシヤ出版は、哲学の古典とも言えるヘーゲルの誤読に関する書物であるし、最近は、古典とその誤読に関する本を数多く読んだ。特に、小林英雄(2008)は、古今和歌集の誤読の要因として、本居宣長の「古今集遠鏡」を無批判に受容した結果としていることが興味深い。
小林英雄(2008)「丁寧に読む古典」笠間書院これらの本を読むと、私自身、日本語史を読み直す必要があるようだ。