第6章.価値判断について
経済学は価値判断を伴わないので、客観性、科学性があると間違った説を吹聴する経済学者がいます。よく検討もせず、他人の説を受け売りするからなのですが、いろんな意味で間違っています。第一の誤りは、科学がすべて客観的だという誤解です。第二の誤りは、人間が観察できる内容に対して客観性を担保にできるという過信です。第三の誤りは、価値判断を伴わない判断が人間にできるという誤解です。
第一の誤りは、結構根深いのではないかと思います。物理学を例にとりましょう。今回のノーベル物理学者となった日本人研究者のインタビューなどで、この事を明らかにすることができます。最先端の科学の分野では、実験で確認できない分野を、論理的な演繹作業で予測として仮説提示することで、理論を発展させます。あるいは、これまでの理論では説明できない現象に、整合的な新たな理論を構築しているという事も出来ましょう。これらはいずれも、実験のような計測に基づく客観的なデータによって裏付けされているのではありません。特定の論理に頼っています。特定の論理に依拠すれば科学と名乗れるなら、かつての錬金術もカルト宗教も科学と定義しなければならなくなります。
第二の誤りは、哲学的な考察が必要になりますが、人間の認識の限界と関係しています。現実に、人間が取りうる客観性は、その人間が存在する世界の科学進歩の発展具合や常識といったものに影響を受けているので、客観性の中身は時代によって異なります。この抽象的内容を伴う単語の意味内容の歴史的変遷という問題は解決困難です。辞書が存在する時代であっても、必ずしも明らかにする事が難しいため、今後も問題解明が困難だと予想されます。それから、客観性の中身が歴史的に異なると仮定しない限り、かつての大科学者たちが真面目に科学と接するのと同様の精神でもって錬金術などに熱中したのは何故か理解できなくなるはずです。そうした大科学者たちの伝記で、今日通用する部分のみ伝えたり、その科学者を非難する目的で今日受け入れられない考えを揶揄したりするのは、いずれも当時の状況を人間が把握困難な事を証明しています。要するに当時の状況を客観的に人間が判断できないから、そのような状況が現在あるということです。未来の人から見れば、現在の科学の一部も、錬金術のように映るかも知れません。
これらを裏付ける事例としては、DDTなどの人間に害を与える農薬が、当初、人間には無害で害虫だけ駆除できるとされ、その分野のノーベル賞を受賞していることや、人間に無害で、ヘアスプレーの不燃ガスに用いられるほど使用されたフロンガスが、実はオゾン層を破壊することが判明したことにより、化学的に安定で人間に無害の素晴らしい物質から規制物質へと評価が反転したことなどに表れています。こうした事例はたくさんあります。
第三の誤りは、通常、どのような理論も何らかの因果関係を仮定しているのですが、法律用語で言われるような(科学で扱われる)事実的因果関係ですら、主観的因果関係にすぎないということです。
よく考えれば、経済学が価値判断を伴わないなどと言えないことは明らかです。まず第一に、合理的経済人を仮定している時点で、すでに重要な価値判断を下しています。人間の経済的誘引に基づく行動の原理として、経済的価値を最大にするという行動原理をもつ人間を想定しています。逆にいえば、主としてこのような経済価値に基づいて行動すると考えられる社会現象についてのみは、経済学で扱える範囲となるということですが、ノーベル経済学賞を受賞しているGary Stanley Becker が言うほど、経済学で扱える範囲は広くありません。