第8章.経済学の欠点
近代経済学というのは、経済指標ではかった効率性を重視する。効率性を達成することが目的で、そのための手段のひとつが市場経済にすぎない。しかし、最近では市場原理主義者が増えたので、この基礎的知識すら欠いているか、意図的に大企業に阿って仕事をするために、経済学の理念を捻じ曲げて伝えようとする勢力が存在する。原理主義的な人は、完全競争市場が効率性をもたらす条件を無視した議論を展開しがちである。例えば、完全競争が実現するには、公正な法の完備が必要といった事柄を意図的に無視する。実証研究において、競争の完全性が確認されるような市場は、現実には存在しない。明確にそうした競争を計測する技術も無きに等しい。だから、完全競争市場に近づけるには、公正な競争は不可欠であり、そのため、不正競争防止法や独占禁止法の厳格な運用などが必要になってくる。
しかし、最近の新聞やマスコミの主勢力の書く記事(特に日本経済新聞など)を見ていると、経済学の基本的な理解を無視した出鱈目な主張が多い。看過できない水準になってきているし、経済学のテキストにきちんと書いてないものも出回っているので、いくつか指摘しておきたい。
完全競争市場といえるような産業は現実には存在しない。現実の統計を使って実証研究を行うと、完全競争的といえる産業もほとんどない。寡占的な産業がほとんどである。競争の度合いを計測する方法も大して進歩していない。マークアップ利潤率や、様々な寡占度などを定義してはかって、企業会計データから経済学の考える企業の利潤などを定義して、競争的といえるかどうかを検討するくらいの研究しか存在しないのが実情である。それに、ミクロ経済学の完全競争理論によれば、いくらでも参入が可能とか、独占的な価格付けはできないなど現状とはかけ離れた假定の上に理論が構築されている。非価格競争を考慮することも難しい。理論を検証するのに必要な同一(品質)の製品ベースの企業統計も存在しない。
市場経済が効率性を担保できる条件は理論上もかなり厳しい。一番単純なミクロモデルでは、市場経済に参加する人間は、すべての経済的な行動を経済計算に基づいて合理的に行動する(ホモ=エコノミクスの假定)。ゲーム理論などで限定合理性のもとでも、市場均衡に近づく条件などは研究されているが、いろいろ無理な假定が入る。市場への参入は多数が自由に出入りできると考えている。この条件も大きな装置産業では簡単ではない。だから、理論上、完全な金融市場や、完全な資本財に関するレンタル市場が必要になってくる。これらも現実には存在しないし、将来存在できるようになる見込みもない。また、ミクロ経済学の市場は、単一の性能が同等の製品に関するもので、これも現在の多様な製品群や特許制度を背景にすると、一致する市場は現実には見つからない。このミクロ経済学の市場観には、その製品価格にすべての情報(製品の性能、質、デザイン、リスク)などが経済合理的に集約されていると考えている。しかし、この考えも奇妙なものだ。実際には宣伝広告費で、製品販売額に影響が出ることが経営学で知られているが、経済学の市場経済理論には、宣伝広告費の存在する余地がない。
もし合理的計算に基づいて、消費行動を行う人間が、すべての情報が集約されている価格情報を基に消費活動を行っているなら、広告の有無で、消費活動は変わる余地がない。つまり、実際には、広告前と広告後では、その製品に関する価格情報はすべての情報を集約しているなどとは言えず、合理的行動を取れるほどの情報もないということになる。こうしたことは、市場経済の競争要件を調べて行けば、際限のないほどいろいろと出てくる。環境経済学では、資源の有限性などを挙げることが多い。ここでは、あまり指摘されることが少なくなっている点をいくつか取り上げたい。
例えば、ミクロ経済学のテキストには、消費活動について、特異なケースとして飽和が取り上げられている。しかし、現実には、もっと簡単に消費の飽和が起こる。経済学を学んでいる大学生くらいだと簡単に飽和する感覚はないと思う。私自身ほとんど感じなかったからだ。しかし、年齢を重ねるとより簡単に飽和に達することを実感する。食に関しても細くなるから、加齢とともに消費の飽和は早くなる。また、本や音楽CDなども、ストックの増加で、保存場所の観点から飽和することもある。音楽CDはサービス品なので、サービス消費にかかかる時間が長くなると、飽和してしまう。音楽を24時間かけっぱなしにしても、所有CDの音楽を聴くのに1年かかるとしたら、廃棄するか、嗜好の変化をさせるか、いろいろ工夫しない限り、簡単に飽和してしまう。
さて、この中でも、とりわけサービスを消費するための時間は大切である。資源の有限性などは価格次第である程度緩和する(例えば、石油価格が高くなればより石油を掘り当てようとするとか、質の低い原油も利用する)が、人間の持つ時間の有限性(一日24時間)は画一かつ、極めてシビアだからである。自分の持つ余暇時間に、自分で値段をつけてその価格を乱高下させるだけの融通性のある人間はあまりいない。実は時間の有限性は、経済学の多くの領域に影を落とす。限定合理性などが言われる背景には、合理的な経済計算が面倒で、計算中に失う時間がもったいないといったことがある。
100円程度の安いものを買うのに、1週間も悩んでいるなら、その間に働いて買った方が満足できそうだ。しかし、こうした時間を考慮に入れた経済モデルは、労働市場などの特殊ケースに限定されるし、これらについてもまともに考えているとは言えない。